2014年12月1日月曜日

だれのために信じるのか?


人はなにかを信じて生きている。

なにかを信じているから、
これが好きだと言ったり、
あれは嫌いだと言ったりする。

なにかを信じているから、
あの人は間違っていると感じたり、
自分が言っていることは正しいと思ったりする。

しかもその程度は、
「信仰」から「常識」まで幅広い。


なにも信じていない人はいない。
そういう人がいるのならば、
最低でもその人は自分を信じていることになる。

「私はなにも信じていない」
という言葉自体が自分の信じていることのひとつだからだ。

でも、こういった揚げ足取りみたいな論理はやめよう。


大切なのは、
人はかならずなにかを信じて生きているということ。

それは大前提。


「私はなにも信じていない」と言う人も、
たくさんのことの中から信じるべきものを選びかねている人も、
だれのためにそうするのかというと「自分」のためだ。

幸せそうな人がこう言っているのをよく耳にする。
「僕は妻や子供を愛していて、家族のために生きているんです」
「社会のために生きることが私の生きがいなんです」

僕はかつてそういった人たちに憧れを抱き、
自分もだれかのために生きたいと思ったことがあった。

世界の貧困地域にいる子供たちを助けてあげたい。
世の中をもっと平和にするようなことをしたい。
両親に恩返しをするために働きたい。

当時僕は二十代を少しすぎたばかりの、
世間のことをなにも知らない大学生だった。

そうすることが良いことだと信じていた。
そして、人間はそうするべきなのだとも。

でも最終的に僕が行き着いたのは、
そのどれもが自分の心を欺いていて、

貧しい子供たちを助けたいという先進国人の傲慢さや、
自分の思い通りに描いた平和という排他的な型や、
だれかが歓ぶ笑顔を見て自分が歓ぶという結末の予想に、

吐気を催すほど苦しめられた。


結局自分は「自分」を歓ばせるためにしか生きることができないのだと。
その強迫観念にも似た考えが無限ループしていた。


当時そのことを話すとよく言われたものだ。
「お前は物事を複雑に考えすぎだ」
「やってみれば考え方も変わる」

でも考えることをやめるには、
あるいは行動に移すには、
僕は自分が世間を知らなさすぎる大学生だと、
あまりにも自覚しすぎていた。

二十年と少し、世界を生きてわかったのは、
自分はだれかのために生きたいと思っているのに、
結局永遠に「自分」のために生きることしかできないというパラドックスだった。

僕はまさに「なにも信じていない」人になった。
そしてそういった人が行き着くのは「絶望」しかなかった。

生きる価値が感じられないし、
目に映るものすべてが敵意をもっているように感じた。

悲しいけれど、当時僕はそれを本気で信じていた。


だからクリスチャンになったいまでも、
僕は「神さま」ではなく「自分」のために信じていると思っている。

「自分」が心地よくなりたいから信仰をもっている。
どれほどそうじゃないと信じたくても、それはどうしようもなく真実なのだ。

自覚から滑り落ちる狡猾で難解な真実。

どれだけ「自分」を避けようとしても、
信仰の土台になっているのが「自分」なんだから仕方がない。
「自分」を完全に避けるには、肉体を滅ぼすしかない。

でも、信じる力を「信仰」のレベルまで引き上げ、
日々鍛錬にいそしむことで僕は無限ループから
どうにか抜け出す糸口をつかんだように思う。

その構図はこんな感じだ。

人間は「自分」のためにしか生きられない。
でも信仰を通して世界の創造主である神さまのために生きる過程で、
「自分」というものはかぎりなく最小に抑えることができる。

その最小の「自分」はかつて僕が信じていたものにひとつずつ、
「偽り」のシールを貼って、外に投げ捨てていく。

そのようにして、
僕は先進国人の傲慢さや排他的な型を取り除くことができた。
(完全にではないけど)


「自分」を否定するのではなく、
ある方法では肯定することもできるのだということを、
僕は聖書に教えられた。


「生まれてきて、ごめんなさい」と思ったこともある。
「人間は滅びるべきなんだ」と考えたこともある。

だけどそれを信じたところでなんのためにもならなかった。

いまはまず生きて、そしてどうするかを真剣に考えるようになった。
かつて僕に「考えすぎだ」と言ってくれた人たちと、
やっと同じ線上に立つことができたというわけだ。

あの人たちはもうとっくに先に行ってしまっただろうか?
 

いまは最小の「自分」になれるように、
日々努力している。


朝よく最悪の気分で目覚める。
「また、世界を悪くしてしまうべつの一日がやってきた」と。

そんなときは深呼吸をして心を静め、
長い時間をかけて祈る。

そして僕はこの世界に存在しないと考えてみる。

するといまここにいることが、
なにかしらの差異を生み出すスターティング・ポイントであることに気づく。

自分の思いこむ歓びや悲しみに惑わされるのではなく、
聖書や書かれた神さまの御言葉に従うこと。
それが世界があるべき姿になる結果につながっていること。

そのことを思い出し、
最悪の気分をふり払って、
僕は祈りを終える。

そして立ち上がる。


ジーザス・フォー・ジャパン・プロジェクトを再開する上で、
そういうことを考えていた。

このプロジェクトを通して、
より多くの人が「自分」を最小に抑えるようになり、
彼らのまわりの人たちが笑顔になれば、
そしてその輪が広がっていくのならば、
それはとても素敵なことだと思う。

願望じゃない。
叶うと信じているのだ、本気で。



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