2014年12月1日月曜日

再開




ジーザス・フォー・ジャパン・プロジェクトがしばらく停止していた。
意図的にそうしていたのならまだよかったけれど、
残念ながら今回停止していたのは不慮だった。

思い描いた理想につづく道を着々とたどるつもりだった。
でもたいていの人が描く大きすぎる夢のように、
その道はあまりにも険しく、あまりにも突拍子がなかった。

肉体を鍛え上げたアスリートだけが達成できる
過酷なトライアスロンの道を行こうとしていたみたいだった。

停止してしまった理由はかんたんで、
外に向かってアクションを起こすためには、
内にある燃料がなくなってしまったからだ。

もともと内にある燃料が少なかったのだ。

停止してからしばらく、
自分の信仰について考えることが多くなった。

だれかのためになにかをしたいと思っていた自分は、
結局無力なのか、とか、

信仰心が足りないから燃料がすぐになくなってしまったのだ、とか、

そういう「自分の力」というものばかり考えていた。


そんなあるとき、八月に広島で土砂災害が起こった。
七十四名もの人々の命を奪うことになるあの悲惨な災害だ。

最初その知らせを耳にしたとき、
横目で流す程度の反応しかしなかった。

アフリカに慢性的飢餓状態に苦しんでいる子どもたちがいる、
と聞かされるときと同じくらいの微弱な衝撃だった。

そういった出来事はクリスチャンと言えども、
日常生活のあわただしさの範囲の外にあるものであり、
その範囲の外枠を破って浸入してくるものではない。
そうするには微弱すぎる衝撃だった。

逐一そういったことを嘆き哀しみ、
両膝をついて床を叩いているわけじゃない。
むしろそうするほうが不自然に思う。

僕は自分の日常生活の範囲の中におさまり、
日常生活の範囲の外にある出来事を見た、
それだけだった。

災害から数日経った。
僕ははじめてテレビで土砂災害のニュースをきちんと見た。

ニュースキャスターがフリップを立て、
カメラに向かってボランティアの募集を呼びかけていた。

そのときだ。
なにかが外枠を破って浸入してきた。

僕はその瞬間感じたことがなんだったのかわからなかった。
でもボランティアをしたいという気持ちが芽生えたのはわかった。
なぜ、というのはわからなかった。

その日仕事の合間にボランティアのことを調べて判明したのは、
テレビで募集していたのは広島県在住の人のみが対象だということだった。

それでも僕はあきらめなかった。
あきらめる、ということすら考えなかった。

つづけて調べてみると日本国際飢餓対策機構という組織が、
県内外関係なくボランティアを募集しているということだった。

僕はすぐに連絡を取った。
そして二日後から一週間ボランティアをすることが決まった。

このボランティアに行くために、
なにもかもが驚くほど整っていた。

パート・タイムの仕事を一週間休むことができたし、
日本国際飢餓対策機構が宿泊する場所を提供してくれた。
地域の教会が連携して食事や支援拠点までそろっていた。
不思議なものだ。

土砂災害があった地域は言葉で表せないほど荒廃していた。
自衛隊や警察隊、消防隊が総動員され、重機や大型トラックが走り、
通信社やテレビ局の関係者がそこらじゅうを歩いていた。

規制線は張られておらず、
泥まみれで汚れた場所と被害のない場所が直接的に交じり合っていた。

そんな中でもっとも特徴的だったのが、
JR可部線の線路を境界にして異なる左右の日常だった。

線路の西側は急勾配の山の斜面になっており、
その山を形成する真砂土という種類の土が土砂の原因となった。

線路の東側は平坦な地面で、
流れた土砂が少し枕木を越えて押し寄せただけで被害はほとんどなかった。

僕がやったのは主に住宅の周りや床に溜まった泥を掻き出す作業だった。
朝から夕方近くまでかけてやったが、
雨のときは作業を中断するか、断念しなければいけなかった。
とてもフラストレーションの溜まる、忍耐の必要な長い作業だった。

一週間をほとんどその作業に費やしたが、
それでも全体のほんの一部を終わらしたにすぎなかった。

僕はそれこそほんとうに無力だった。
無力以外のなんでもない。

だけど不思議と自分が無力だったと感じなかった。
そこで出会った人々と交わしたものすべてが、
僕は無力ではなかったという確信になったのかもしれない。

腰の曲がった一人暮らしのお婆さんが廊下に両手を突いて、
助けてくれてほんとうにありがとう、と言ってくれた。

困り果てて家を取り壊そうと考えていたおじいさんが、
家が回復したいくほどに明るい笑顔を見せるようになり、
最終的に取り壊さないことを決めた。
 
何十人という僕と同じ境遇の仲間がいて、
僕と同じように、自分がもてる時間と労力を使って、
そこで助けを必要としている人々の力となった。

僕は無力だったかもしれない。
なにもできなかったかもしれない。

だけど、僕がそこにいたということが、
困っている人やそうでない人に関係なく、
大事だったのだと思う。

僕たちが作業をしている近くである新聞記者がこう言ったそうだ。
「災害が数日経って、ドラマ性のあるネタもなくなった」

七十四名もの人々が亡くなった土地で言うには、
なんとも勇気のある言葉だと賞賛したい。

だけどこの皮肉は、自分にだって当てはまるのだ。

土砂災害が起こったという出来事が、
僕の日常生活の外枠を突き破ってこなかったこと。

ある意味ではドラマ性のある出来事しか、
突き破ってくることはできないのだということ。

そんな不感症な心をもっている自分がおそろしい、と思う。


でも、それを責めるために生きているわけじゃない。


一週間経って僕はまた、 日常生活の中にもどってきた。
それから数ヶ月とくに変わったこともなく過ぎた。

しかしあの日々から時が経ち、
あの日々が自分にとってどんな意味をもっていたのかが、
考えや感覚が咀嚼され少しずつ消化されていくほどにわかってきたように思う。

僕はなぜボランティアに行こうと思い立ったのかわからなかった。
厳密に言うといまでもはっきりとはわからない。

その瞬間にもった「正しい気がする」という予感が、
「正しかったのだろう」という予感にあいまいに変化しただけだ。


そしてたぶん、その予感はこの先もずっとあいまいなのだろう。


自分がなにをすべきかということは、確信的な事柄ではないのだ。
それは神さまに訊ね、神さまが用意し、神さまが促してくれることなのだ。

僕はずっと「自分の力」でそれをはっきりさせようとしていた。
だから停止してしまったのだ。
「自分の力」というものをたよりにしすぎて。


そのとき僕は日常生活の範囲から出ようとしなかった。
出ることなしに、なにかより大きなことをしようとしていた。

だけどそれはまちがいだった。
たとえもしそれでうまくいっていたとしても、
僕は大事なことを欠いてしまっていただろう、と思う。

「人は心に自分の道を思い巡らす。
 しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言16:9)


これからジーザス・フォー・ジャパン・プロジェクトを再開するにあたって、
信仰が自然とみちびく方向に進みたいと思う。

なにをするかはこれからゆっくり考えていきたい。

だけどもう、
劇的な成功というものを求めることはないだろうし、
具体的な達成というものも求めることはないだろう。

だけど幸福な生活がそうであるように、
そういったものはほとんど重要ではないのだ。

僕は取り乱されることのない平凡な日常から、
少しずつ救いようのない荒廃した場所へと足を踏みこんでいく。


ちょうど広島で見たあの線路の西側から東側へ進んでいくように。


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